汎アラブ週刊誌「アル・ワサト」(2003年5月5日号)

イラク国立博物館の略奪:

さようなら、シュメール、バビロニア、アッシリア、そしてアッバース朝の文明

ラシード・ハイユーン

メソポタミア文明とアッバース朝の遺物をもっとも多く収蔵している博物館の1つであるイラク国立博物館のようなところが徹底的な略奪に遭うと言うことは、まさしく現代の蛮性、後進性の証人としてあったある文明に幕が下ろされることを意味しています。

何千年も前にウルの町ではすでに医者が帝王切開を行なうまでに医学の進歩が見られていたのに、いまそこの住民は怪我の包帯さえも持っていないと言うのです。
バスラの市街ではそこの思想家、ムンタゼリはその昔、ニュートンのあの林檎を使って引力の法則に辿りついていたのに、いまでは観測所1つなく、住民は裸足で水を求め歩き続け、援助物資のパンの袋を手に入れようとして駆けて行くと言うのです。
パンと薬に替えるために盗品がすぐさまパリに到達するように国際的な窃盗団と協力してまでバグダッドの無法者たちは遺跡・遺物への顧慮も持たず、自国の歴史を略奪したのでしょうか。

博物館の方がより一層貴重なもののはずなのに、なぜアメリカは油田地帯に対してやったように博物館や古文書館の警備を考えなかったのでしょう。地中から湧き出して来て損害を穴埋めしてくれるものではないからでしょうか。

イラクと博物館が幾千年にわたり保ち続けてきたその文明の発展の唯一の証しであるものが失われたとき、多くの疑問が提起されることになりました。
都市的なものとベドゥイン的なものが合体したような方法で国立博物館や古文書館の略奪と抹殺が行なわれたことは、私たちが戦争や蜂起と言ったことから自分たちの歴史を守る用意ができていない限り、結局イラクは大英博物館とかパリのルーブル博物館、ベルリンのベルカモン博物館のシュメールやバビロンの遺物を放棄すると言うことに繋がってしまうかも知れません。

ただ私が希望を繋いでいることと言えば、イラク博物館から略奪された物と言うのは、1991年の戦争以来、地下室に収納されたまま商売人たちの手から無事だった本物の単なる石膏で作られたコピーに過ぎないと言う噂が確認されたら、と言うことです。

イラク国立博物館の設立

1923年に英国の高等弁務官のオリエント地区の書記官(女性)ミス・バルがマドハト・バーシャの時代から「サライ」として知られている政府の1部屋に博物室を開設したことに始まります。
その後、遺跡の発掘と共に拡大して行きました。そために、リサーファ(チグリス川東岸)のマウムーン通りにある建物に移りました。

1932年にドイツ人技師のワーナー・マーリフが博物館に相応しい建物の設計を委任されました(1963年まで実施に移されることはありませんでした)。
面積は45,000平方メートル。その中には遺物の収蔵スペースとして460平方メートルが当てられ、また戦争や空襲から遺物を守る隠し場所も設けられました(1966年のイラク博物館ガイド)。

その後、バグダッドの西岸のサーリヒーヤ地区の現在の場所に落ち着いた博物館から国王ファイサル1世の配慮によりミス・バルの胸像は人目に晒されることのないように博物館の前から取り除かれました。そして胸像は1979年に開設されたナジャフの「1920年革命博物館」に移されましたが、その後の運命については前述の博物館の職員、ムハンマド・サイード・タリーヒーによれば、
「開館の2年後にサッダーム・フセインのおじのヘイルラー・トラファーフによって1920年革命博物館の収蔵品が根こそぎ没収されてしまった。胸像もその中にはっていたが、どこに行ったのかは分かりません」。

国立博物館はアッシリアの門の形式に倣って有翼の雄牛に囲まれた入口の他に、石器時代、奴隷時代、シュメール時代、バビロニア時代、アッシリア時代、ハトラ王国の時代、イスラムの時代の各時代の遺物の展示スペースがあり、更にはそれらの展示物に関する教育的なスペースも用意されています。
博物館の副館長のナビーハ・アミーン(女性)によれば、略奪に遭ったり、破壊されたりした遺物は17万点に上り、それは4月11日に博物館が襲われた日に運び出したり壊したりできなかったものを除いて博物館の収蔵品のすべてと言うことです。

オスマン帝国と発掘者たち

オスマン帝国の時代に遺物の盗みは頻発しました。19世紀中頃には船を使ってイラクの遺物が英国やフランス、アメリカなどの博物館に運び出されました。
当時はスルタンから発掘の許可を得た発掘隊はどんなものでも出土品を何らの監視を受けることなく運び出すことができました。
考古庁の技術顧問であるスィートン・ロイドは雑誌「スーメル(シュメール)」の記事の中でこう述べています。
「その当時はチグリス川の上をアッシリアの彫刻物を積んだ数多くの船や筏がヨーロッパや新大陸の博物館に向けて航行した」。

ドイツ人はバビロニア時代の遺物をベルリンのベルカムン博物館に細心の注意を払って運び出しました。その中にはイシュタール門、ネブカドネザルの墓などが上げられますが、イシュタール門はいまもほぼ完全な形を保っています。
この博物館の来訪者はひと時、自分がベルリンにることを忘れ、幾世紀の時間を越えて放つバビロンの雰囲気の中にいるにいるような錯覚にさえ陥ります。
しかし、彼の夢はそこに設置された警報機とか翻訳機の機械的な声、更には観光に訪れた人々の発する意味の通じない外国語などによって覚まされ、現実に引き戻されます。

私は石の門の鮮やかな色合いに見惚れてしまいました。バビロニア時代の人々はどんな塗料をでこんなにも素晴らしい色を出すことができたのでしょう。どうやってこんな素晴らしい形の門を造形したのだでしょう。しかも、それは幾つもの時代を越えてなお生き続けているのです。

ネブカドネザルの墓について言えば、それは地下の大きな部屋を占領しています。そこはまるで聖なる場所のようです。来訪者は墓の中に何があるのか知りたいと思いつつ、石の墓の周りを巡ることになるでしょう。どこに王の遺体とその副葬品はあるのだろう、幾つもの版に記されているのはどんなことなのだろうか、と言ったことに思いを巡らしながら。

ミスター・クックの盗み

英国人はどうかと言えば、彼らもシュメール時代やアッカド時代やアッバース時代の最も貴重な遺物を自国の博物館に運び出しました。それらの遺物の中には戦利品として持ち帰ったものもあり、発掘隊が持ち帰ったものもあります。
サーティ・ハスリー(考古庁元長官)は発掘隊の取り分について言っています。
「英国人がイラクを占領した時、サマラにいたホルスフォルト発掘隊の手元には発見した遺物が150箱ありました。それらがすべて一種の戦利品としてそこへやって来た英国占領軍によって運び出され、ロンドンの大英博物館に寄贈されてしまった」。

次いで、イラクに対する委任統治時代のイラク英国考古庁長官、ミスター・クックのやった恥ずべき盗みについて言及することになります。
ミスター・クックの盗んで行った箱については、イラクの国会やバグダッドの各種の会合で人々の間で問題にされ、一般大衆の間でも話題にされました。
ミスター・クックの盗みはジャウファル・アブータマンを始めとする国会議員をいたく怒らせました。それで、彼らはタウフィーク・スワイディ首相の拒否に遭うことにはなりましたが、発掘現場にイラク人の監視員を任命するよう求めました。

アブータマンはこう述べています。
「首相閣下は法律に従がって、監視員の問題とそのための支出は発掘隊がすべきことだと言っている。そして、彼は監視員の任命の有効性には疑問があるとしている。だが、私は逆に、長い間の経験から遺跡を守るべき人が遺跡を商売の種にしているのではないか、と言う疑念を抱いているのだ」。

英国とイラクの対立

政府の次元でのイラク遺跡への関心は、ミス・バルの監督下に1920年に教育省に付属する考古庁が設立されたことに始まります。しかし、彼女は遺物の管理を教育省に代わって運輸省の下に置くことにしました。

ミス・バルにはイラクに初めての博物館を設立したと言う功績があります。
しかし、彼女の死後にその管理を任されたクックが問題でした。彼はイラクから遺物を盗み、イラクから追い出されました。
その後の継いだのが、シドニー・スミスです。彼はかつて大英博物館の副館長の職にあった人物でした。彼の後には、ユルダン博士が就きました。
こうした経緯の後で1934年にユルダン博士を顧問に留めることを条件にして、サーティウ・ハスリーが長官に任命されるようになるまで、結局考古庁は英国の委任の下にありました。

サーティウ・ハスリーはイラクの遺物の保護のために大変な努力を払いました。そのために、英国大使はイラク外務省に手紙を送りました。ハスリーが考古学の専門家ではないので、発掘隊との間でスムースに事が運ばないと言う理由で彼の任命に異議を唱えたのでした。
それに対して、ヌーリィ・サイード外相に代表されるイラク政府はハスリーには必ずユルダンに相談すると言うことで大使を安心させました。

発見された遺物は1924年の法律によって発掘隊と考古庁との間で半分ずつに山分けすると言うことに決まりました。複数個の出土品についてはそれで良かったのですが、出土品がたった1つの場合は籤引き拠りました。
ハスリーによれば、発掘隊の中にはイラクの取り分についても修復とかメンテナンスとかの名目で持って帰り、そのままになってしまう例もあったと言うことです。

イラクの遺物に対する権利を保障するようになったのはその後の遺物法が施行されるようになってからのことです。
この法律のもっとも大切なところは、考古庁が監視員の任命の自由を持つことが実現したところにあります。
1934年の教育委員会の報告書は遺物の保護を願ってこう記しています。
「来る年も来る年もイラクの遺物は博物館から流出している。一旦欧米に流出してしまえば、1923年の法律により幾百万のお金を出してもそれらの遺物の中の石ころ1つさえ買い戻すことはできない」

それ以前、1929年の国会においてモスールの国会議員、ディヤ・ユースフは遺跡の保護に熱心に取り組もうとしないタウフィーク・スワイディ首相と対決しました。
「いまなお、多くの隠された物があると聞いている。しかし、私にはいままで行って見たりする機会が与えられなかった。首相閣下にはご存知だろうと思いますが、1924年に出てきたエジプトの遺跡はやがて発掘隊によって盗まれてしまうだろうと言う噂があるのですよ」。

同じような目的で、モスールの国会議員のホーリィ・ユースフは政府に対して時代遅れになった遺跡法に早急に発掘許可を禁じる条項、すべての遺跡への監督条項、国外への遺物の移動を禁じる条項を盛り込むための同法の改正の必要を決定するよう求めました。

ハスリーの努力は持ち出される遺物の保護に限られるものではなかった。文明の遺産と言う観点から遺跡の外観を失わせるような動きを抑えることにも彼の努力は向けられました。彼は覚書にこう記しています。
「アルシド・アムリーが城塞の壁の外にバグダッド市庁を建設しようと構想し、チグリス川方面の壁を壊し始めた。だが、考古庁はその破壊を止めさせた」。

しかし、アムリーは1932年のクーデターを利用し、クーデターの指導者であるバクル・スィドキーに対して考古庁が市庁の建設のために上述の歴史的な遺跡を放棄するよう求める決定を出すように働き掛けました。そのために、最後には歴史的な塔などが破壊されてしまいました。

こうした市庁建設の際の失敗はありましたが、一方では考古庁はハーン・マルジャーンの歴史的なイスラム建築の外観と失わせ新しい建物にしようとする動きを止めさせました。
その他にもあるいは、ガゼルのミナレットとかフラファ・モスクなどの修復に対しても、宗教庁から支出の割には重要度が低いと言う理由で異議が出されました。
しかし、アブドル・カリーム・セーセム首相は上記のモスクの修復に熱意を燃やし、建築家のムハンマド・マッキーヤに指示を出しました。マッキーヤはアッバース朝の時代の都市に相応しい形でチグリス川の岸辺までナツメヤシの街路樹を植え、広場も新たに造成すると言った修復のプランを作成しました。

しかし、1063年2月8日のクーデターの後に修復の事業はストップしてしまいました。そのために、プランに沿ってモスクが完工する前にその落慶が宣言され、マッキーヤはミフラブの位置が外れているとか、十字軍の模様の織物がそこに掛けられているとか言った意味のない嫌疑を懸けられ取調べを受ける羽目になりました。

歪曲に晒されるバビロン

イラク国立博物館が完全に略奪される以前に、偉大なイラクの遺産は発掘現場への襲撃だけでなく、博物館からの窃盗の被害に遭うことで流出の危機に直面していました。一番最後に起きたこととしては、アッシリア時代の金製の宝物が上げられます。
それは以下のような話です。

この宝物は新しく発見されたものでした。ところが、ある抗することのできない筋からある時、それを詳しく調査すると言う理由で送り届けるよう求められました。しかし、それはイラク博物館の元の場所に戻ってくることはありませんでした。

全体として言えば、イラクの考古学者による歴史遺産への保全の努力が続けられましたが、フセイン体制の虚栄によってバビロンやシュメールの遺跡が弄ばれてきたと言うことも指摘しておかなければなりません。
フセイン大統領の下で遺跡地帯は歪曲と変形を余儀なくされたのです。例えば、バビロンにある「パレード通り」は再舗装が施され、礼拝所はバビロニア時代のそれとは無関係な現代建築の方式で再建されてしまいました。また、バビロニア時代の劇場の遺跡は放逐されたフセイン大統領の誕生日を祝うのに相応しいように拡張されてしまいました。

古代のバビロンの壁への醜悪な歪曲として更に指摘されねばならないこととして、有名なネブカドネザル王の彫像の傍に次ぎのような言葉と共にサッダーム・フセインの彫像が彫られてしまったことが上げられます。
「ネブカドネザルからサッダーム・フセインに至り、バビロンは新たに復興する」

一方で、バグダッドの南35キロのところにあるマダーインの遺跡について言えば、イワーン王の像の修復保全はしないことが決められました。
遺跡はイラクにおけるアッシリアの様式を持った時代からセルジュークの時代にわたるものなのだが、そうした決定を下した中にはイランとイラクの間に起きたほんの一瞬のことと幾10世紀の時の重みを区別して考えない姿勢が窺えます。つまり、それがササン朝の遺跡だと言うことだけで、歴史的、文明的にその建築物は修復の必要なしとされてしまったのです。

イラク国立博物館が荒らされる前のことですが、そこの収蔵品の一部がミスター・クックのスキャンダルよりももっと酷いスキャンダルにより、本来遺跡類の保護者であるべき人々との間の「協力」により密輸がされたと言うようなこと、あるいは前体制が遺跡・遺品を支配し弄んだ、と言うような話が誇張を交えて幾度となく語られてきました。

サッダーム・フセインの夫人、サージダはイシュタールのネックレスやベルトで自分自身を飾った、と言うようなことまで語られました。
イシュタールが実際にネックレスやベルトを持っていたかどうか、私たちには分かりません。イシュタールは女神であり、唯の女ではありませんでした。
しかし、イラクの遺跡・遺品の収蔵品に起きたことに関するこうした話はただ単に誇張とばかりとは言えません。

霊廟の貴重品

サッダーム・フセイン体制の崩壊する直前にイラク各地の遺跡や国立博物館や古文書館を襲った略奪行為だけでなく、外国の調査隊からもブラックマーケットの商人からも手の届かないところにあった。
貴重な遺品(遺産)について話してみたい。それはナジャフやカルバラ、バグダッド、サマラなどの神聖な宗教施設にある貢物などの貴重品類のことです。こうした貴重品は聖廟の中の頑丈な部屋に厳重な管理の下に保管されています。

サーティウ・ハスリーによれば、考古庁は聖廟の管理者たちの許可を取ってそうした貴重な贈り物などの記録と撮影を行なったと言うことです。
また、彼は考古庁長官と言う立場でナジャフにあるイマーム・アリの聖廟に付属する博物館でブワイフ時代にまで遡る貴重品を調査したと言うことです。

しかし、そうした調査には当時、激しい反対ありました。反対の大方の理由は、そうした貴重品は西洋の博物館の展示品の概念とは違うと言うことから来ていました。

これらの貴重品の中には例えば、回教暦365年にブエイフ朝の王から送られた墓を覆う刺繍の施された織物とか王自身の絹の着物、更にはあちこちのスルタンたちや王子たちからの金のしょく台などが上げられます。
また、回教暦1世紀に遡る昔の550巻のコーランに関する書物、ガラス製品、絹織物、金ぱくを施した刀剣、真珠のシャッダ、黄金の鞘を持った短剣、花環、黄金の冠と言った具合です。

再び、マダーインについて言えば、そこにはペルシャの王のアーチが建造されています。サーティウ・ハスリーは彼の覚書の中で、ファーリス・サルマンの墓に関する遺跡を発見について記しています。彼によれば、そこで銀製の箱が見つかっています。その製作はアッバース朝のカリフ、ナーセル・ラディーンラー(回教暦575―622)の時代に遡ります。

木の模様の刺繍で飾られたその箱に彫られた装飾文字を読むと、それはイマームのジャウファル・サーディクに贈られたものであることが分かる。そこには、ファーリス・サルマンを示すようなものは何も読み取れません。
ハスラーはそれについて、「絹は最初、イマームの墓所に置かれた。しかし、ある1人の金持ちが銀の箱を墓所に飾りたいと思い、木製の箱は取り払われた。つまり、そこには新しい箱が置き換えられた。しかし、誰1人としてその箱に書き記されたことには注意は払わなかった。それでサルマンの墓所に箱は置いてあるのだ」、と言っているが、私は彼の説明を論理的なものとは思えない。と言うのは、イマーム・サーディクの墓所はメディナにあることは周知の通りです。
しかし、箱の場所はマダーインです。どんな風にしてこんな取り替えが起こったのでしょうか。どうして箱に記された箱に記された記述が等閑に伏されたと言うのでしょうか。事は重要な墓所に関することで、贈り物はカリフからのものです。ハスラーのような推測は困難なことに思えます。

遺跡・遺物の山

イラク国立博物館は1970年代半ばまでに国内遺跡の数を集計しています。その数は6555点に上ります。
考古庁は136枚の地図の上に各地方ごとにそれらを確定しました。すなわち、モスールが1159点、キルクークが755点、ナーシリアが703点、バグダッドが560点、バウクーバが473点、ドホークが455点、エルビルが384点、スレイマニヤが375点、クートが268点、ラマディーが248点、ヒッラ(バビロン)が224点、カルバラ(ナジャフとクーファを含む)が173点、バスラが96点、サマラが79点です。

アフワール(南部の湿地帯)に向けてサーベイヤーが下って行くと、「イーシャン」と言う場所の名が現れます。チュバイシュの中心には26の遺跡がありますが、その中の19が「イーシャン」と呼ばれています。
それは、シュメール語の言葉であり、いまなおそれが使われているのです。その意味するところは、「水に囲まれた丘」です。そこでは、古代の人々によって編み上げられた数多い興味深い話が旅行者たちの心を捉えました。

メソポタミアの歴史に関する展示品がイラク国立博物館から空っぽにされてしまった以上、新たにイラクから掘り出される物や新たな遺跡から発見される物に希望を繋ぐ以外にありません。