「戦争の悲劇から無事だった『砂漠の都ハトラ』」、と言う見出しで、3週間にわたるイラクの諸都市を席巻した今回の戦争の嵐は紀元前1世紀に建てられたハトラの神殿群を見舞うことはなかった、と報じられた。


サーレム・ホルーシュ・ホドーリィ老人は「砂漠の都」の異名を持つこの遺跡---パルミラ(シリア)、ペトラ(ヨルダン)に比肩する遺跡---を1971年からずっと30年以上にわたり門番として守り続けてきた。
ホドーリィ老人によると、この数週間と言うものは遺跡の来訪者はいないと言うことだが、
「戦争はここまでは来なかった。戦闘を目撃することもなければ、アメリカ兵を見ることもなかった」。
だが、戦争が始まる前に5台のトラックが来て神殿広場の彫像を積んで運び去って行ったと言うことだった。
「どこへ行ったのか私には分からないが、おそらくバグダッドのどこか安全な場所に移されたのだろう」。

ホドーリィ老人は1994年にハトラを訪れたフセイン大統領を直接目にすることがあった。でも、
「私は一介の門番に過ぎないので、近付くことなどできるはずもなく、遠くから見るだけだった。大統領は多くの警備の車に守られ、空にはヘリコプターも5,6機飛んでいた」。
フセイン大統領は神殿の修復に使われた石に自分自身の名を刻んで帰って行った。

ホドーリィ老人はフセイン体制の終焉については、
「自分の人生を変えるものではない。私は一介の門番に過ぎない。そう言うことは私には何の関心もない」。

ホドーリィ老人の記憶では、フセイン大統領は1980年に1度だけハトラの住民に3千ディナールをくれたことがあった。当時としてはかなりの金額だった。
しかし、老人は最後にこう言った。
「でも、フセイン大統領はハトラのためには何もしなかった。見てご覧、ここの遺跡はなお修復を必要としている。発掘も進めなくてはならない。この土の中にはきっと多くの彫像が埋もれている。ここを訪れる人々が休むホテルやレストランも必要だ」。