汎アラブ週刊誌「アル・ワサト」(2003年5月5日号)

「サッダーム古文書館」と侵略者と盗賊の間で引き起こされたイラク古文書の悲劇


古文書(手書き文書)の中には人々が洞窟の壁や岩の上に引いた線や陶器や粘土の板の上に彫りこんだもの、ガゼルや骨やナツメヤシの葉、更には木の板や鉱石、ガラス、パピルス、紙の上に書かれたものも含まれます。
各種の紙の上に書かれたアラブやイスラムの貴重な手書き文書の多くは火を付けられたり、水浸しにされたり、土中に埋められたり、盗難に遭ったりしてきました。

有名な古文書の悲劇としては、フェルナンドとイザベラの命令により引き起こされたコルドバとグラナダにおける百万を数える文書類の焼却処分が上げられます。文書類が水浸しにされた例としては1285年のバグダッドにおけるモンゴルのフラグ汗の軍がやったことが上げられます。
焼却と水浸しの両方の被害を受けた例としては、レバノンのトリポリにあった図書館が十字軍の手によって焼かれたり町の中心を流れるアブ・アリー川に捨てられたりした悲劇を上げることができます。アブ・アリー川は文書類をみんな地中海に流してしまいました。
また、土中に文書類を埋めた例としては、アンダルシアのイスラム教徒がイスラム関係の文書類が官憲の手に渡るのを恐れて、土中に埋めてしまったことが上げられるでしょう。
この土中に書き物を埋めると言うことは、20世紀に入ってからも、1つ以上のアラブの「先進的な」国で繰り返されたことでもあります。

次ぎに、サラエボで起こったことについて述べてみたいと思います。サラエボのオリエントセンターの古文書類はセルビアの砲撃に遭いました。それは同様にサラエボの国立図書館にある古文書類が蒙ったことでもありました。
このサラエボでの災難の前には第一次世界大戦中にすでにボスニア・ヘルツェコビナの古文書類がオーストリア人によって盗み取られています。それらの多くはいまなおウィーンの図書館に存在しています。
レバノンでも度重なる占領や内戦によって多くの古文書類が盗難の悲劇に遭っています。そして、イラクですが、ここでも古文書類も焼却や水浸しや、それに単独でだったり徒党を組んだりした盗賊のターゲットにされていました。

アラブの古文書類の略奪と言う問題は決して目新しいことではありません。ずっと以前からそれは繰り返されきており、それがアラブの古文書類の世界的な分散に繋がっている訳です。

アラブ連盟のアラブ古文書研究所の統計によれば、3百万点の古文書が英国、トルコ、ロシア、フランスなどに流出しています。アメリカについて言えば、1国だけで1万5千点の古文書がアメリカ国内の図書館に分散して所蔵されています。その中には、プリンストン大学にある1万点が含まれています。
しかし、この統計的な数字は古いもので、その後に更に別の古文書類がソマリア、レバノン、ボスニア、ヘルツェコビナ、セルビヤ、クロアチア、コソボ、インドネシア、アフガニスタン、インド、イラク等々から略奪されています。

大英博物館のホールや収蔵庫には現在も2万5千点以上の建築、文学などの分野の古文書類がありますが、それらはアッシリア王バニバル(BC669―626)の粘土版の収蔵庫から略奪されたものです。
アメリカのペンシルベニア大学の発掘委員会はイラクの古代都市ヌファルの版8万点を略奪しました。この犯罪行為は1890年から1898年の間に引き起こされました。これらの版の歴史は実に紀元前2700年から2100年にまで遡ります。

このように盗人たちのリストは長く続いています。そして、歴史的な遺物に関する条約にはいまなお、97ヶ国しか署名していません。英国やアメリカはこれらの署名国の中には入っていません。

イラクの古文書は最近100年間だけ見ても、焼失や盗難、破壊と言うような災難に遭い続けています。とりわけ、1963年に政権の座に着いたバース党は周知のように、過去を重視することや、党の社会主義的民族主義的な思想に異を唱えて宗教的な伝統に依拠したりすることに対して、その「革新性」を掲げ排撃する姿勢を取りました。
バース党によるクーデターの後、封建主義者とか反動主義者とか名指しされた勢力の図書館は破壊の対象にされました。また、その後の第1次湾岸戦争(イラン―イラク戦争)と第2次湾岸戦争(いわゆる「湾岸戦争」)を通してイラク国内の諸都市が戦火に覆われた時には、イラン、クエート、イラクの古文書類が混乱に乗じた盗賊たちの餌食にされ、窃盗と不正な海外流出と破壊に見舞われました。
続いて、「解放」のための「イラクの自由」と命名された今回の戦争が始まりました。しかし、戦争は様々な盗賊を解放することになりました。そして、最大の犠牲者は戦火に焼かれたり、侵攻して来た装甲車やイラク国内外の盗人たちによって運び出された古文書類を含むイラクの歴史遺産でした。

古文書を巡る20世紀最大の災難というべきは、あちこちの図書館から古文書を集め、1つの図書館に収蔵したことです。と言うのは、そのことによって一挙に古文書類が破壊されてしまいました。学校やモスクに付属する図書館や公的・私的な図書館の古文書類が新しい政治指導者の名を冠した中央図書館に集められました。
この悪しき習いは1923年のトルコ共和国の樹立以来、顕著なけ傾向となりました。こうした傾向は西はユーゴスラビアから、アラブ諸国を経由して東はインドネシアに至る他の国々に伝播して行きました。

政治指導者の名前を高めることに寄与するこの図書館の建設はイラクでも、1988年にバクダッドに建設された「サッダーム古文書館」に見ることができます。
「サッダーム古文書館」は文化情報省の考古庁の下に置かれました。そして、イラクの古文書類に責任を持つと言うことにされ、その最初の所蔵品の中核となったのが、1940年に設立された国立博物館の古文書類から取られた4千点を越える希少価値のある古文書類でした。
「サッダーム古文書館」には5万点を越える古文書類が集められ、その中のあるものは登録され、その他のものは収蔵庫に入れられました。
「サッダーム古文書館」の目録には40214点の古文書が次ぎのように分類されています:オスマン・トルコ語の古文書が786点、アラビア語の古文書が36461点、ペルシャ語の古文書が2757点、クルド語の古文書が210点…・。
このようにして、「サッダーム古文書館」はイラク最大の古文書のコレクションとなり、所蔵品の中には極めて貴重なものが含まれることなりました。

「サッダーム古文書館」の収蔵品の選定はイラクの古文書の専門家によってなされました。その中には、回教暦1世紀に遡るクーフィの書体でガゼルの皮に書かれた古文書も含まれています。この古文書についてはそれが正統カリフ時代のものであり、その中の7枚については第4代カリフ、アリー・ビン・アブーターリブに関係のあるものと言われており、極めて重要なものです。